こんな事を今更言うのもおかしな話ですが、僕は君を知らな過ぎました。 たまには、僕とゲームをしませんか? 「あーっ!!また負けたぁ!!!」 昼下がりの事務所に響く声。 今、僕の目の前にいる燕尾服の男性『ホームズ』さんは、僕が働いている事務所の社長だ。 “仕事の息抜き”と言う事で、僕達はチェスをやっている。 「全く…何でそんなに強いんだ?貴緒は?」 「ホームズさんもお強いですよ」 そう言いながら、駒を並べ直す。 社長との息抜きは、毎日の日課の様になっていた。 ただ、いつもと違う所が一つ。 「ワトソン、弱い」 そう、今日は僕の隣に同じくこの事務所で働く人物、副社長の『鎌谷呉羽』さんがいた。 「貴緒が強過ぎるんですよ!」 ふいっと、頬を膨らましてそっぽを向く。 「あ、拗ねた」 呉羽さんが言う。 社長は、「拗ねてません!」と反論しながら、いつも座っている社長の席へと腰を下ろした。 「今に見ていなさい、貴緒を打ち負かす必勝法を編み出してやりますから!」 ビシィ!と、僕を指差した社長は、近くの本棚から『初心者でもすぐ強くなれる!最強チェス入門』と書かれた本を取り出した。 「そんな物読んでる暇があるなら、この前の依頼書片付けてくれればいいのに」 呉羽さんが言うけれど、社長は熱心に本を見つめていてそれ所ではない様だ。 「聞こえて無い様ですね。ホームズさん」 「はぁ…」 呆れた様にため息をつく。 あの様子では、しばらく戻って来なさそうだ。 (さて、どうしましょうか?) このまま社長が戻るのを待つか、それとも社長が戻るまで仕事の続きをするか……。 そんな事を考えていた時、ふと隣にいた呉羽さんが目に入った。 「?」 目があった時、不思議そうな顔をされたので思わず、 「どうですか?たまには」 と、チェス板を差し出した。 呉羽さんは、少し考えてから「自分、弱いですよ?」と言った。 「そんな事、やってみなくては分かりませんよ」 僕がそう言うと、「じゃあ、一回だけ」とソファーに腰を下ろした。 「では、呉羽さんからどうぞ」 呉羽さんは、「どうも」と小さく頭を下げて、黒い駒を動かした。 僕も、白い駒を動かす。 そうして、交互に駒を動かしている内に、僕の脳裏にある疑問が生まれる。 (そう言えば、呉羽さんはどれぐらいこの事務所にいるんだろう? ホームズさんは、僕が来るずっと前からと言っていたけど……) 初めて見た時は、こんな若い人が事務所の副社長をやっていたなんてと驚いた。 それからも、不思議な人だなぁと思いながら仕事をして来たが、こんなに近くで接するのは初めてかもしれない。 そもそも、同じ事務所で働いていると言うのに、彼の事を何一つ知らないなんて、おかしな話だ。 考えてみれば、聞きたい事は山程あった。 いつ頃から、この事務所にいるのか? 何故、この事務所へ来たのか? 家族はいるのか? 身体中の包帯は何なのか? 右目の眼帯は…………? ちょっと考えただけで、疑問は尽きない。 しかし、その内の一つも彼に投げ掛けた事は無い。 何故か、聞いてはいけない気がしたから。 今、それを聞いてしまったら、彼の生活を壊してしまう様な、そんな感じがしたから………。 「あ、チェックメイトです」 「…………え?」 ふと、呉羽さんの声で我に帰る。 チェス板を見ると、僕のキングが呉羽さんのナイトに倒されていた。 「…僕の負けですね」 「まぐれですよ」 「いいえ、呉羽さんはお強いです。完敗いたしました」 「ありがとうございます」 そう言って、呉羽さんは僕に笑顔を向けてくれた。 (あ………笑った) 僕は、初めて見たその笑顔に少し驚いたけど、何だか彼の事がちょっと分かった気がして、嬉しくなった。 (またやりませんか?と誘ってみましょうか) そう思って、僕は口を開く。 「また、ご一緒に…」「えっ!?呉羽、貴緒に勝ったんですかッ!?」 僕のセリフに被る様に、社長のセリフが割り込んで来た。 「どんな戦略を使ったんですか?呉羽?」 「ワトソン!遊んでる暇があったら仕事しろ!!」 「えー!教えてくれたって良いじゃないですかー!」 「仕事を片付けてからな」 「ぶー」 「『ぶー』じゃないッ!!」 「仕方ないなぁ~。貴緒!次こそは絶対私が勝ちますからね!!」 そう言って、仕事机に戻る。この光景も、もはや日課ですかね? (また、今度誘えばいいか…) 先程、社長の思わぬ割り込みで言いそびれた言葉。 それを、そっと心の中へ収めようとした時、 「貴緒さん、もし宜しければまた一緒にチェスをやりませんか?息抜きにでも」 再び僕へ向けられたあの笑顔。 不思議と、僕も笑顔になって彼に言った。 「えぇ。喜んで」 何一つ彼を知らない。 だから、知りたくなった。 でも、彼を壊してしまわない為に、決して僕からは聞かない。 時間を掛けて、ゆっくりと彼を知って行こう。 だから僕は、また彼を知るきっかけが出来て、思わず笑みが浮んだ。 ――――たまには、こんなゲームをするのも良いですね――――